2015年12月3日木曜日

アル中?











































こんばんは♪


味より量!!!
アル中のマストアイテム「大五郎」を毎日、作業場に持って行きます。一日の消費量はなんと一本以上。本日もベロベロで、フラフラで窯詰めが終わりません(笑)



もうねぇ、ヤメラレナイ、トマラナイってヤツですよ♥♥♥













というのは、全て嘘で・・












中身は・・・・ただの水です(笑)作業場に水道がないので、ペットボトルやポリタンクなどで水を持参しています。
春頃の発表を目標にいろいろと作っています。焼き物のみの展示にはならないと思いますが、攻めた内容にする予定です。











2015年5月20日水曜日

土地蔵の数について






土地蔵の制作を開始したのは、大学3年の後期からです。 

現在、土地蔵は極小サイズ(5センチほど)のものが約11,000点、10センチから50センチほどのものが約500点あります。

そのうち、8割から9割は、大学3年の後期から四年の前期に作ったものです。

もともと土地蔵の制作は、祈りを込めることとは別に、誰よりも多くの作品をこの世に残すことをテーマにスタートした側面があります。

多量な作品を敷き詰めるようなインスタレーション手法は最も簡単な作品の演出方法と考えており、好きではありません。また、多量の作品を作るという行為自体もあまり好きではありません。

ですが、ピカソや円空が膨大な数の作品を残したように、圧倒的な数の作品をこの世に残すというは、創作に対する圧倒的なモチベーションがあることを実証する一つの手段ではあると考えています。

数への挑戦に臨むための試作としてスタートしたのが大学の時に作った極小サイズの土地蔵です。このサイズのものは手のスピードを上げることを何よりも重視していたため、形は似たモノが多く、個体差は通常サイズのものに比べて少ないという特徴があります。














 
どのシリーズの作品でもそうかもしれませんが、土地蔵の場合、今よりも初期作品の方が予期せぬものが生まれる確率はたぶん高かったです。








 





そのため、最近は、少し手法を変えながら、かなりスピードを落として制作しています。

面白いと感じる形を探りながら数を残すことは難しいと痛感しております。

焼くのはこれからですが、今日は二点ほど少し面白いものを残せました。





2015年4月14日火曜日

ちっぽけな主体








                                        

4月12日、第18回岡本太郎現代芸術賞展が終了しました。

お越し下さった皆様、搬入・搬出や会期中に大変お世話になった学芸員さんやスタッフの皆様に心より感謝申し上げます。

出展作家さんの中には個人的に少し接点のある方々もいました。楢木野淑子さんは大学の先輩で今回初めてお話することが出来ました。菊谷達史さんと四井雄大さんは兄の大学時代からのお知り合いで、今回初めてお会いしました。敏子賞を受賞された久松知子さんとは、三重の美術予備校の基礎科時代からの知り合いです。私は受験の年、途中でその予備校を辞め、名古屋の河合塾美術研究所に行ったのですが、浪人時に再会、そして今回再び再会しました。また、どこかでお会い出来ると勝手に予想しています(笑)。

素敵な作家さん達との出会いにも感謝致します。多種多様な表現がぶつかり合う会場にて、作品を展示させていただいたことをとても光栄に思います。

今回(18回)より始まった企画、手紙プロジェクトにて温かいメッセージの数々をいただきました。自らの作品に対する真偽はいつだって、他者による言葉が起点となっております。

前回のブログ(http://akio-ishiyama.blogspot.jp/2015/03/blog-post.html)にて「なぜ、今、作品を残すのか?」という問いに対して、「今じゃなきゃつくれない(死んでからでは作れない)」といった味も蓋もない解答をさせていただきました。「なぜ、今、作品を残すのか?」といった問いは、「未来に作品の真偽がジャッジされる仕掛けを作っている」ということを明言したオルガノンシリーズ(http://www.akio-ishiyama.net/#!-works3/c16x2)だからこそ発せられた問いに過ぎないのではないかという仮説を導きました。恐らく、自分以外のほとんどの作家も、未来に向けて、今、作品を作り続けているはずであり、自分がモノを作る要因は、全く特殊なことでないと認識することにもなりました。








                                       

「主体は客体にはなれない」ということを考えると、「客観的視点とは、所詮は主体に帰属するものでしかない。客観的と主観的という言葉はおそらく同義である。」という当たり前過ぎる事実を前に、いつもいつも凹み続けております。

一創作者が、自分を超えたモノを作るには、「チームを組織し、他者の手を借りるという物理的な方法論を用いる」か「人の意見を聞く」という二択しかないのではないといつも考えています。当然、資金や組織力がない多くの人は後者の一択しか出来ないのでしょうが・・・。もちろん、現在、「誰が知っとるねん!!」という超ドマイナー作家の私は後者の一択しかできません(笑)

肯定、否定、今後も皆様の様々な意見を参考に作り続けさせていただきます。



(写真撮影:松原豊)



















































2015年3月4日水曜日

幽霊になる前に全ての芸術家がこの世界でしなければならないこと



3月1日のギャラリートーク、無事終了しました。

少し、話のテンポが早かったかもしれないと反省しております。

独自の文字を刻んだ作品シリーズ、オルガノン(http://www.akio-ishiyama.net/#!-works3/c16x2)についての質問のほとんどが、「作品にはどういったことが書かれているのか?」あるいは、「なぜ、今、作品を残すのか?」といったことに集約されます。

「なぜ、今、作品を残すのか?」という質問をいただく度に、ぽかんとしてしまいます。それは、おそらくナンセンスな質問だからです(笑)。

作品に刻み記した内容についてはコンセプト上、お答えすることはできませんが、今、自分が作品を作る理由は明解すぎるほど明解です。

簡単に言うと今しか作れないからです(笑)。幽霊になってからでは、多分、作れませんし・・

芸術作品としての真価が問われるのは自らの死後、それがどういった価値を創造しているかに尽きると考えています。自らの意志や意図が未来に影響を与えるためには、生きている時代に作品そのものの中に独自の構造を作らなければなりません。

自分にしか読めない文字を作品に刻み記すということは、生きている時代において自らの言論の自由を獲得する一つの手段でもあります。

例えば、作品の中に文字として「自由」と書いたとしても、それは単なる祈りや願望、あるいは不自由な現実に対する嘆きなどであり、構造として作品そのものが自由を獲得することにはならないはずです。

つまり、自らの作品が自由を獲得するためには、他者に犯されることのない独自の構造を作品そのものの中に組み込まなければならないということです。

その独自の構造というのが、オルガノンの作品シリーズの場合、独自の文法を持った、自分にしか読めない文字を刻み記すということです。

作品にはどんなことが書かれているのかという謎の部分に注目する方が多いのですが、オルガノンシリーズの場合、謎を創造することそのものが今から未来に向けた、価値の創造になります。まぁ、くだらない価値の創造かもしれませんがww


身も蓋もない話ですが、幽霊になる前に全ての芸術家がこの世界でしなければならないことは、今、作品を作ることです。















会期:2015年2月3日(火)~2015年4月12日(日)

料金:一般600(480)円/高大学生・65歳以上400(320)円/ 中学生以下 無料 
    ※本料金で常設展もご覧いただけます
    ※( )内は20名以上の団体料
 
休館日:月曜日、2月12日(木)
 
主催:川崎市岡本太郎美術館、公益財団法人岡本太郎記念現代芸術振興財団

詳細はhttp://www.taromuseum.jp/exhibition/current.htmlをご覧ください。